映画「キャビン」の話

久しぶりに映画を見ました。サスペンス映画「キャビン」(米)
会社の同僚が「絶対にビックリするから!」と熱烈に推してくれたのでそんなに言うならばと。

いわゆる、ホラー映画におなじみの山小屋にキャンプの若者達
の身に怪物が迫る!だけど実はそれを演出してる大きな流れがあって(ここまで予告編で紹介されてます)・・・・ていう、ホラー・サスペンス映画のあるあるを逆手に取った多層式スリラー。
見終わってから知ったけど、脚本・共同監督ジョス・ウェドンだと!どーりでキレの良い編集だし、雷神様がでてるわけだ(しかもめちゃチャラい)。トイストーリーとロストの脚本家がコンビで作ったんですね・・・

(若干ネタバレするよ、今日も上から目線だわっほーい!)

フェイクドキュメンタリーっぽいルックで攻めつつも、予告編とか周囲の人の反応が凄かったんで、かなり大きな題材を扱ってくるのかと思った。ただ最後まで観た感想は・・・・うーん、期待しすぎたかな?大風呂敷を広げすぎた感じ。実際はパニック映画の域を出ていなくてちょっと残念。
違う映画に置き換えて言うと、「ラスト・アクション・ヒーロー」とか「ドラえもん のびたのドラビアンナイト」とか?

観客に対する謎の提示と、その解がいいテンポで提示されていって、それで?それで?っていう興味でつい観れちゃう。
でも結構わざとらしい伏線らしき物が散らばってるんだけど、回収に失敗してたり回収しなかったり。
「映画的な文法を逆手に取った」っていうアイデアが結局全てなんだよね〜
途中からフィクションと現実の境界の曖昧さ、「観客」が作り手に求める娯楽性のうらに潜む狂気や残虐性、そんなテーマらしきものがわざとらしく見え隠れするんだけど、最後のショットがパニック映画でした〜!って大声で言ってるもんだから、もったいないかな〜って思った。またジャックと豆の木か・・・

まあ、古典ホラーやサスペンススリラー好きの人は、お祭り的なテンションで観ると良いかも。「これまんま◯◯にでてくる◯◯じゃん!笑」って突っ込みどころ満載です。
個人的にはitさんがウケました。これ舞台でやったら観たいなあ。

以上!失礼しました〜!

「GODZILLA-ゴジラ-」の話 後編

宇多丸さんのウォッチメン解説のアツさに当てられたので、後回しにしてた前回のGODZILLA-ゴジラ-」の感想を語らせてください。ちょっとだけね!


まず、前回は映画の良いところというか、期待していた部分を挙げました。
ハリウッドが本気でゴジラ精神を表現したらどんな凄い映画になるのか!?

満を持して観に行った感想、それが!
ゴジラは出てくるんだけど、ゴジラ映画じゃなかった!ここが残念!」


主な理由を挙げてみます。

・エメリッヒ版と違って着ぐるみのゴジラを踏襲した重量感のあるデザイン(これは良かった)

ゴジラ映画の根本である反戦反核というテーマを勘違いしたシナリオと設定

ゴジラが単にでかい「KAIJU(パシリム的な)」としてしか描かれていない

・登場人物達の感情や行動原理が伝わりずらく感情移入できない

・話のベースが明らかに敵怪獣「武藤」

・怪獣のみせ方のあれこれ・・・

といったところでしょうか。

以下、ネタバレしながら勝手な感想をつづります、嫌な人は見ないでください。(時間が経ったんで内容が曖昧です。許してね)

ゴジラ映画の根本である反戦反核というテーマを勘違いしたシナリオと設定

核や戦争といったキーワードを織り込んでいるんだけど、そうじゃないいいいってところです。
今回のゴジラの設定は、かいつまんで言うと「太古から生きている生態系の頂点の生物。人類の戦争や環境破壊でよみがえり、ビキニ環礁などの核実験はこれを葬るために行われた作戦だった」というもの。生物学者ケン・ワタナベ博士いわく「自然の調和」をもたらす存在で、人類がけっしてコントロールできない自然そのもの、とのことです。
これは、予告編の段階でえっ、と思いましたが、ようするに「ゴジラ=人間の負の歴史そのもの」であるから胸に響く破壊や、人類との対決、登場人物達の心理など、もともとのゴジラ映画が持っていた最大の魅力を欠いていると思います。



大前提として、
一時期の子供向けゴジラはこの意味が薄まっていますが、基本的にゴジラが他のあらゆる怪獣映画と違って深い意味で長く受け入れられている理由はここです。
ゴジラを生み出したのは人間だ。人間の方がよっぽど化け物だよ」という初代版の良い台詞があります。
水爆実験の影響で巨大化した、眠りから目覚めた、作品によって書かれ方は若干違いますが、ゴジラは人間の過ちによって生まれた脅威という設定ありきで物語が作られてきました。だからこそ圧倒的な破壊シーンに息をのみ(初代ゴジラの上陸コースは東京大空襲のコースと同じ、とか)なす術もない人間のどうしようもない絶望が、特撮のダイナミズムを超えた高次な意味での感動を呼ぶのです。

このメッセージを分かっていない!それが残念でならない!

ここがゴジラが単にデカイ怪獣としてしか描かれていないことにも繋がるんですが、
ゴジラと言えば核だよね!怪獣王だよね!クール!」な程度の考え方なのかな?という印象を勝手ながら抱きました。
だから最後にゴジラは救世主か?とかってテロップまで入れちゃう・・・人間達はただの傍観者、あるいは巻き込まれた存在としての「第三者感」がどうしても否めない。「ジュラシック・パーク」ですらない。(あっちも科学と自然に対する人間のおごりがテーマ)

まあでも、渡辺謙演じる博士が、怪獣に対して核を使おうとする軍人に対して「肉親が広島で被爆した過去」を明かすシーンで、反核に少し触れてはいるんだけどね。
でもそもそもゴジラという最大の問題が単なる自然の驚異って扱いだから、単なるモンスター映画としての域を出ていない。
怪獣映画にお決まりの「我々の武力さえあればあんな怪獣など」な考え方の軍人が今回も出てきます。要するに戦争を起こした人間のイメージで、たいていは良いところまで攻めるんだけど最後に怪獣に負けてボコボコにされます。怪獣の強さを強調する意味もありますが、なによりも「人間が強大な兵器を作る限りゴジラも大きく強くなって暴れ続ける」つまり戦争がある限りゴジラは戒めとして現れ続けるということを言ってるんですが、そういう思い上がりに対する逆襲もない。それがあればいくらか良かったのになあ・・
メッセージは曖昧なまま単なるモンスターにすぎず・・・やっぱりアメリカ人にとって原爆ってのは単なる大きい爆弾に過ぎないんだなあと改めて思いました。



長くなっちゃった・・・ここからもっとハショっていこう

・登場人物達の感情や行動原理が伝わりずらく感情移入できない
これもイタい。特に主演のアーロン・ジョンソンくん。(キックアスでヘロヘロダメ青年だったのにムキムキでしかも所帯持ち!になってたのはビックリした)
あちこちを移動するスケールの割にその行動の元になっている感情がいまいち分からない。奥さんを思うため早く家に帰りたいからなのか、(そのくせ作戦には進んで参加するし)親父の最後の言葉に従っているのか(そのわりには家族の元へ帰るより命を賭して戦うタイプ)、それとも怪獣を倒したいのか、でもお父さん殺したのゴジラじゃないし、う〜ん
クライマックス周りの人々のドタバタ(常にどたばたしてるんだけど)意味を持ってるように思えないんだよなあ。アーロンくんも奥さんもお互いがどんな立場にいてどう思い合っているかの描写がないから、状況の緊迫感に伴う心理的ドラマが起こらないし。
奥さん側ではゴジラがすぐ真上に、でも医者としてここを離れるわけには・・・一方家族のためにゴジラを食い止めようとするアーロンくん、しかしその足下には妻が避難している施設が!とかっていう展開にすれば人間サイドも盛り上がると思うんだが。
あと目の前の武藤より電磁パルスの方が気になっちゃうおっさんとか、一目見ただけで謎の怪獣の生態をだいたい言い当てちゃうお姉さんとか。そんな反応しないだろってのがいっぱいあったなあ。
モノレールで助けた子供とか、いらんエピソードが多かった気がする。
お父さん主役で良かったのに〜。


・話のベースが明らかに敵怪獣「武藤」
観た多くの人が思ったこと、それが「ムートーって敵怪獣の方が強そうだし出番多かったよね」ということ!
ぎゃああああ!!
この武藤さん。今回いろんな事件を引き起こす原因であり、終盤までいかにこいつを倒すかが人間側の主題になってます。(名前の説明はない)したがって、その間ゴジラの影が薄い。

しかも雄雌の対で登場(一体しかいないゴジラはなんで生きてんの?)夜のジャングルでの軍隊との戦闘や産卵シーン、もちろん大破壊シーンなど盛りだくさん!
それに対してゴジラは太古からの宿敵としての位置づけはあるにせよ、終盤までほとんど絡みがない。
「MUTO-武藤-」のほうが良かったんじゃ?


・怪獣のみせ方のあれこれ
なんていうか、やっぱりCGのキャラクターに見えてしまいました。
橋でのゴジラアメリカ軍の戦いの描き方は、アングルなど含めて上手いなと思ったんだけど、武藤との初戦のテレビ映像ごしとか、アップになると異様にひくひく動く顏とか、引きで映ったスケール感とか。怪獣を本物らしく魅せるのは、やはり演出なんだなと改めて思った。
アニメーションや特撮映画が本来「模型や嘘を本物らしく観せる」ことに特化したのに対し、それらのノウハウをばっさり捨ててしまった感じ。
とにかくゴジラ対武藤の観せ方が残念でならない!違う場所の様子を挟む事で物語が多角的に展開していく語り口は良いんだけど、それがあからさますぎてテンションが持続しない。戦闘の一番良いところで豪華ホテルのバスルームとか、ゴジラ遂に登場!の直後の展開はテレビのちっちゃい画面で・・・とか。
個人的には「ガメラ3」中盤の上空でのガメラvs的怪獣vs戦闘機と、それをモニターしてる司令部の同時展開とかね。お互いがお互いの状況に関係している、あるいは緊張感を高めるなりの影響がないと、CMみたいな「おあずけ感」しか感じない。

あとね、なによりショックだったのが、
あんだけ溜めといて、その熱線のチョボチョボ感はなんやねん!ってこと。まあこれはかなり個人的ですが・・・
武藤サンも「ちょっ、熱いからやめて」程度の反応だし。
↓こんな感じで爆散してくれるの期待してたのに〜



まだまだいろんな事言いたいんだけど、
日本の描き方とか、原発事故の時のガスみたいな視覚的なものは何?とか、アーロンくんの爆処理の腕前とか、目の前で爆発してんのに誰も逃げない空港とか、キューブリックの某有名宇宙映画のBGMそのまんまとか、武藤さんの形跡を探す時に施設の中で異変探す前にちょっと外の空気吸ってこいとか、あるけど、これくらいにしておきましょう。


今後DVDが出たら買うかな

・・・・いや、その前に元のシリーズ揃えるわ。

「GODZILLA-ゴジラ-」の話 全編

夜が暑い、、眠れない

オンボロエアコンがごうんごうん言いながら頑張ってくれていますが、それでもなかなか寝付けない夜です。

眠ろうと頭の中を散歩していると
ふと、週末に観て来たゴジラのワンシーンを思い出した。

そう、今度のハリウッド版ゴジラね、観てきたんですよ。
もうなんかね、言いたいことがありすぎて、、、
思い出し始めたらもっと寝付けなくなりそうな、、、



言いたいことは一つ!
今回のゴジラ

ゴジラ的な何かは出てくるんだけれども、
決して『ゴジラ映画』ではなかった!」

のです((((;゚Д゚)))))))



*以下、「GODZILLA-ゴジラ-」のネタバレ含む感想です。



日本の生み出した特撮映画の決定版、ゴジラの海外リメイク映画はこれが二作目(アニメはいっぱいありますが)。
最新のCGで描かれたゴジラの躍動感とスケール感はとても生々しく、その生態の設定やデザインもより生き物的ディテール(水かき!とかね)を施された新ゴジラは新鮮でした。
「リアルな巨大モンスターが現在の大都市に現れたら街は、人々はどうなるのか」を追求しようとしたリアリティへの挑戦が随所に見受けられました。特にスーパー兵器などのファンタジーは抑えめで、普通の戦車や空母で迎え撃つという構図は自衛隊員たちの泥臭さもあって好きです。ガメラシリーズなんかがそうだよね。ラストで本来なら倒すべき怪獣に向かって、名もなき兵が敬礼!とかね


しかも今回は、前回のハリウッド版と違い、敵怪獣とのバトルがある!古代から蘇った怪獣「ムートー」は電磁波を操り、放射能を吸収する(?だっけ)強敵。近づくだけで
戦闘機や空母が無力化されてしまうムートー、打つ手はあるのか!?
怪獣の設定もややっこしいものはなく、昭和ゴジラウルトラ怪獣などによくみる子供が見てもなんとなく飲み込める設定で親しみが持てました。

あと今回は、メインキャラクターのケン・ワタナベならぬ、芹沢博士。彼の名前は1954年版の初代「ゴジラ」で打つ手がないと思われたゴジラを葬り去った科学者の姓です。
ファンからすれば、ゴジラに出てくる科学者と言えばセリザワ博士!というほどの名キャラ。そんな人物を盛り込んで来るなんて、監督わかってるじゃん!と期待を膨らませたのでした。
今回の芹沢博士は、父親を広島原爆で失うという過去を持ち、ゴジラ映画で不可欠な「反戦反核」のテーマを映画に持ち込んでくれる人物でもあります。
やっぱゴジラ映画はそれがないとね、、


しかし、それらの幻想は、
映画を見て行くうちに、幾つものポイントで少しずつ崩れ落ちていったのであった、、、

続く

お酒を飲んだ日

久々に友人達と飲んできた。
お酒も周り、二軒目のファミレスの席で
ほんの少しの間、Twitterの話になった。

Twitterでどうでもいいこと呟くのはどうなの

というたわいもない話だった。
もちろんみんな酔っているので、そもそもTwitterはたわいもない、どうでもいいことを1人よがりに発信するコンテンツなんじゃないか、ということは考えなかった。


でも、どうでもいいこと ってなんなんだろう。

ぼくの友達は皆、何のために一言を発信するんだろう

帰路につきながら考えていた。


僕がいつも呟くのは

映画を観た!とか
身の回りのくだらないことをネタにして笑いをさそおうとしたり
そんなことだ。

無意識に、理解してくれる誰かを期待してるのかもしれない。


そこが、人に見せない日記と違うところだ。


僕は、Twitterとブログを使い分けている。使いこなしてはいないけど。
ブログは、なんとなく考えを保存する場所だと思っている。


考え事をした時に言葉にして残したいのは何故か?僕の場合は、その時の閃きや普段よりも高尚な精神が、ほっておくと消えてしまいそうなので記録しておくという感覚だった。でも、後になって見直したくなることはまるで無いのだ。

それでも、はけ口を求めるのは何故?
FacebookTwitterで、愚痴を垂れながらも特定の人だけの閲覧制限をかけるのは
そこまでして発信するのは何のためなんだろう。


たぶん、理由はその時によってバラバラだと思う。
あまり流れて行って欲しくないけど、誰かには聞いて欲しい。
1人どうしょうもなくハイになって、他の人にも伝播したい。
その時によって気持ちも
生き方も、毎日変わることが自然なことなんじゃないかと最近思うようになった。

いつも自然体でいられるとは限らない。付き合いもあれば、堕落したい時もある。そしていつも自然体でいたいと思う時もある。
そのサイクルこそが自然な証なのかも、と最近思うようになった。


美大の頃の友達は、みんな何処か不自然すぎたり、かと思えば不安定なほど自然体だったり。
壊れる寸前でギリギリ平静を保ってるみたいな。
それが個性豊かってことなんだろう。

そんなことを考えながら、今日読んだ森博嗣の短編に出てくる一言を思い出した。

「生まれつき壊れてる奴もいるし、意図的に壊れていく奴もいる。だいたい、どっちかだ。」

僕もやっぱり、壊れているんだろうか。

台風が過ぎたらあっちいね


ピンテレストからあっつい女の人の模写。元画像
勉強の甲斐あってか少しずつプロポーションの取り方が分かってきた。部分的に。
左手はごまかし。


今日の脳内作業BGM


明日はお墓参り行って、無線マウスとキーボード買うぞー

「ゴジラ」の話!

初代ゴジラをBSで観ました。
冒頭、
デジタルリマスターでフィルムについた傷とかフィルムのガタつきまで除去してしまう手間と技術の紹介映像があって、まずそれにビックリし、


改めて観ると
特撮の先進技術(当時)の発想や工夫が盛りだくさんで面白い。
スーツでは出せない細かな仕草はギョニール(手を入れて動かすパペット)で表現し、
尻尾による破壊はコマ撮りと奏演による連携、(猛スピードのまま横転する消防車なんかもストップモーションでした)
にげまどう人々の恐怖とゴジラの巨大感を強調する合成ショット(怪獣が数百メートルあるだろ!ってのはご愛嬌)
さらに放射熱戦はスチームによる実写とオプチカル合成のアニメーション表現が巧みに使い分けられています。


その編集の見事さ!
合間合間に実物の建物や人々の芝居をかませてリアリティを高めていて、
まさに特撮表現のお手本を観ているようでした。
円谷英二ばんざい!


登場人物も迫真の演技です。悪魔の発明をしてしまいながらも、目の前の失われる命と正義の間で葛藤する芹沢博士の姿。普段は爽やかなんですけどね。研究がらみのシーンでは目を見開いてひたすら額の汗!汗!汗!


あと、改めて音楽を聴いていると、かなり平成のシリーズにそのまま引き継がれていたんですね。ゴジラが解けていくシーンは「VSデストロイア」のあのシーンのコーラスと重なる・・・涙


今観てもまったく色あせないストーリーと演出。むしろ震災を経た今だからこそ
強調されるような、焼け野原の東京。野戦病院。平和を祈る歌。


30作近いゴジラシリーズのなかでも、映画として最も優れた作品だと改めて思ったのでした。




で、


ここまできて今度のアメリカ版ゴジラ・・・
大丈夫なんだろうか?

おもいっきり改ざんされてるように見えますが・・・